前のエピソード
ハナは、天井に目をやり、口を半開きにしたまま固まった。
「何か思い出したの?」
「えっと……」
言い淀んだ彼女は、ふるふると首を横に振った。
「言いたくない」
それは、先ほどまでのような、僕への非難を含んだ声色ではなく、むしろ、申し訳なさそうな雰囲気を帯びていて……かえってその態度に、僕はいらだってしまった。
「なんだよ、分かったことがあるなら教えてよ。こっちだって混乱してるんだから」
「ごめんなさい、本当に言いたくない」
黙秘を決め込むつもりらしい。
それならばと、僕は作戦を変えることにした。
ちょっぴり首をかしげて、切なげな表情を作る。
「……ごめん。怒るつもりじゃなかった。でも、何か思い出したのなら、教えて欲しいんだ」
ハナの真正面に立ち、両肩に手を置くと、彼女はびくっと怯えたように、一歩あとずさった。
恋人に示す反応ではないな、と思う。
だから、彼女が思い出したのは、僕のことではなさそう。
「僕が誰だかは分からないんだね?」
「……ええ。ごめんなさい」
そっと、肩に置いていた手を離す。
ハナはふうっとため息をつき、不安そうな顔で尋ねてきた。
「思い出したことを言わなかったら、どうなる?」
どうしようか。
あまり駆け引きみたいなことはしたくなくて、それはひとえに、彼女が何を言おうと、僕にとっては大事な恋人だからだ。
でも、と、思い直す。
大事ならば、少しでもヒントを集めて、ハナの記憶を取り戻さなければならない――もしかしたら、この子は本当に、ハナではないのかも知れないけれど。
少し考えてから、首を横に振った。
「ううん、何もしないよ。でもその代わり、僕もひとつ気づいたことがあるけど、言わない」
うそ。気づいたことなんてひとつもない。
それでも、情報を人質に取るようなことを言えば、彼女は口を割るのではないかと思った。
ハナは、苦しそうな表情を浮かべたあと、降参したように言った。
「あなたのことは思い出せないけど、昨日の夜あなたとキスしてから寝たのは覚えてる。でも正直言って、知らない人とキスした記憶なんて、気持ち悪いし、言いたくなかった」
何をしていたかの記憶はあるのか。
しかも、間違っていない。僕は昨日、ハナとキスをしてからベッドに入った。
「失礼なこと言ってごめんなさいね。きっと、酔って誰だかも分からないあなたを家に連れ込んで寝たんだわ」
「いやいや。僕は君のこと知ってるっていうか、僕たち、付き合っててここで一緒に住んでるんだけど?」
「え……?」
ハナは、目を丸くしたまま固まってしまった。
色々聞きたいことはあったけれど、とりあえず、一番大事なことを確認することに決める。
「あの……とりあえず教えて欲しいんだけど。君、名前は?」
「柳涼子。23歳」
「仕事は?」
「派遣社員」
「家族構成は?」
「父、母、高校生の双子の弟」
僕は、手のひらをばちんと額に当てた。
全部合っている。彼女の名前を除いて。
「……僕の顔に見覚えは?」
「残念ながら、ないわ」
15分ほど話をして、状況を整理した。
まず、本人は柳涼子として生きているけれど、過去のエピソードなどはハナのそれと完全に一致していた。
僕のことは知らず、僕との思い出は昨晩キスしたことだけ。
よって、彼女はいま、『なぜか自分の名前が記憶の中ですり替わっていて、なぜか僕のことが記憶から抜け落ちている状態』なのだと考えるのが、自然だろう。
好きでもなかったバナナを食べていたのは気になるけれど……まあ、大したことではない。
「それで、気づいたことって何なの?」
先ほど言ったハッタリだ。
僕は、少しもったいつけたあと、さも最初から考えていたかのように答えた。
「あのさ、篠崎和馬って分かる?」
「うん。大学の同級生だけど」
「僕と、その……ハナの共通の友達で、僕も和馬のことは知ってる。だから、これはただの提案なんだけど……」
僕は深く息を吸い込み、ふーっと吐き出してから言った。
「和馬に、君の名前を聞こう。もしあいつが君のことを柳涼子さんだと言ったら、僕は君の前から消える。けど、もしハナだと言ったら、きっと君は記憶を失くしているんだと思うから、思い出す手伝いをして欲しい」
フェアなようでフェアではない、ギャンブル。
だって彼女は、ハナに決まっているのだから。
第3話 賭けに負けるふたり
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